機密の島・金輪島とは?

▼道路脇に防空壕(軍需物資用)跡を見る

いつも「比治山陸軍墓地」から海の方を展望すると、赤いヤグラが立ち,真っ先に眼に飛び込んでくる「金輪島」、2000年までは、似島や宮島、まだ紹介していない江田島倉橋島等多くの島に戦争遺跡を求めて行っていましたが、ここだけは、今は金輪島造船所となっており、かって仕事で行った経験、さらにこの島について書かれた文献に殆どお目にかかっていなかったため、人を案内する自信が無く行きそびれていましたが、2000年は偶然ですが、なんと3回も渡りました。最初は、1994年に江種祐司氏が書かれた資料一つだけでの「冒険旅行」、2回目は8月7日の海のクルージング・フィールドワークでの参加者として、3回目は、ついに「案内人」として。

1992年、陸軍船舶司令部がおかれ、隷下の部隊として陸上勤務第209中隊(暁1989部 隊)が、戦争末期には野戦船舶本社の一部もこの島に置かれ、全島で、動員学徒が働いていました。空辰男さんは著書「加害基地宇品」の中で、ここでベニヤ板で造った舟(○レ)での特攻訓練に明け暮れていた時に、6キロ離れて炸裂した原爆を見たと書かれています。

宇品の市営桟橋から15分も船に揺られて行くと、造船所に着きます。クレーン群の中にも戦争中使用されていたものがあるといいますが、ちょっと見分けがつきません。眼に飛び込むのはナンバープレートの無い車(ここでは道路交通法は適用されていない)と、道路脇に数多く口を開けている防空壕(軍需物資が貯蔵されていた)の跡です。

そこから、当時の水道の跡やもっと大きい壕を探して幾つか見つけますが、写真で紹介しても何のことか判らない状態で存在を確認。

それより、海岸 沿いの頂に、何か大きな「碑」が立っているのに気が付いきました。そばに行って見ると八つの文字が削られています。ちょうど、付近の人に出会ったので聞いてみると「死者を慰めるようなものではなかった、戦意を高揚させるような文章だったはず」といいます。それで削られている理由がおぼろげながら判りました。たぶん「八紘一宇」とか「皇威輝八紘」、「皇運扶翼」とかいったたぐいの文章だったのでしょう。

それから弾薬庫がその近くにあったと江種さんの資料にあります。見渡してみると、畠の古いコンクリート雍壁を見て「あっ、これに違いない」と気づき、地元の人に尋ねたら、「弾薬庫の中を埋め立て畠にしたもの」との答えを貰い確認できました。(こういうのに気がつく、というのが年季というもの、と威張っていましたら、後に江種さんに尋ねて、これもそうだが、山の反対側にもっと迫力のある物が残っているとのことでした。そこまで見つけられなかったのが残念。)

この島に運ばれて無くなった500人もの原爆犠牲者を悼む「御魂安かれ」とある1998年8月3日建てられたばかりの金輪島新慰霊碑ももちろん訪ねました。

1998年建てられた「金輪島原爆慰霊碑」前で  

碑文「御霊安かれ
一九四五年八月六日、広島に原子爆弾が投下され、街は一瞬のうちに破壊し、熱線に焼かれて跡形もなくなった。市民は熱線と放射能で即死、又は全身に火傷を負って逃げまどった。そのうち約五〇〇人位が金輪島に運ばれ、暁部隊の方などに助けられ、看護を受けた。負傷者は血だらけで、手をにぎると皮がつるりとむけ、水をくださいと叫びながら、次々に恐怖と苦悶の中で息絶えたという。同年八月一五日、ついに終戦して戦火はやんだ。今日、広島は平和都市として復興し、我々は平和の恩恵を受けているが、この平和は50余年前不幸にして戦火の中に亡くなられた方々の犠牲のうえに築かれたものである。
 この碑を建てることにより、金輪島で息絶えられた方々の御霊を慰め、共々に平和を守る気持ちを新たにしたいと思う。