広島都市圏を知れ!

広島都市圏は、広島を中心とする経済地域で、広島市と周辺の衛星都市の集合体を指す。10%都市圏の人口は約158万人、5%都市圏(絶対)の人口は約185万人で、中国・四国地方では最大の都市圏である。

広島県が指定する広島市を中心とした広域行政圏は、「広島大都市周辺地域広域行政圏」「広島圏」などと呼ばれる。広島市の南西に隣接する広域行政圏は「広島西広域市町村圏」「広島西圏」などと呼ばれる。これら2つの広域行政圏は、広島地域事務所によって統一的に管轄されている。
広島圏 127万1974人
広島市
安芸郡府中町海田町熊野町・坂町)
広島西圏 14万5811人
廿日市市
大竹市

それぞれの市町村の通勤通学者の内、5%以上の連担した範囲を、広島都市圏を構成する市町村とみなす。人口規模はおよそ185万1000人

人口 233万9460人(2005年国勢調査
面積 6302.80km²(2005年全国都道府県市区町村面積調)
1993年10月、広島県の旧安芸国山口県岩柳地区にある主な市により、広島広域都市圏形成懇談会が設置され、広島広域都市圏と呼ばれる圏域が設定された。これは、小売商圏をベースにした経済圏で、日常的な都市圏とは異なる。

広島広域都市圏形成懇談会構成市町(11市2町)

広島圏
広島市
広島西圏
大竹市
廿日市市
岩柳地区
岩国市
柳井市
芸北圏
安芸高田市
安芸太田町
北広島町
広島中央圏
東広島市
竹原市
呉圏
呉市
江田島市
尾三
三原市

広島広域都市圏の地域内の町は、上記2町以外、基本的に広島広域都市圏形成懇談会に参加していない。以下に参加していない自治体を列挙する。

広島圏:安芸郡全4町(府中町海田町熊野町・坂町)
広島中央圏:豊田郡全1町(大崎上島町
尾三圏:尾道市および世羅郡全1町(世羅町
岩柳地区:玖珂郡全1町(和木町)、熊毛郡全3町(上関町・田布施町平生町)、大島郡全1町(周防大島町

▼民間の定義
金本良嗣・徳岡一幸によって提案された都市圏。細かい定義等は都市雇用圏に則する。 広島市中心市とする都市雇用圏(10%通勤圏)の人口は約158万人(2000年国勢調査基準)。

都市雇用圏の変遷
表を縮小するため、上述の広域行政圏の「広島圏」の構成自治体(広島市および安芸郡の計1市4町)を、ここでは便宜的に「広島圏」と表示し、広島市の10%通勤圏を「広島都市圏」とする。
和木町は山口県玖珂郡の自治体。それ以外は広島県自治体。
都市雇用圏を形成せず、かつ、10%通勤圏に入っていない自治体は、各統計年の欄で灰色かつ「-」で示す。

広島市
1985年3月20日広島市佐伯郡五日市町編入され、広島市佐伯区となった。
2005年4月25日、広島市湯来町編入され、広島市佐伯区の一部となった。
廿日市市
1988年4月1日、佐伯郡廿日市町が市制施行して廿日市市となった。
2003年3月1日、佐伯郡佐伯町・吉和村を編入した。
2005年11月3日、佐伯郡大野町・宮島町を編入
その他
2004年3月1日、高田郡吉田町、八千代町、美土里町、高宮町、甲田町、向原町が新設合併して安芸高田市となった。
2004年10月1日、山県郡加計町・戸河内町・筒賀村が新設合併して安芸太田町となった。
2004年11月1日、佐伯郡江田島町沖美町能美町大柿町の4町が新設合併して江田島市となった。
2005年2月1日、山県郡大朝町・芸北町千代田町・豊平町の4町が新設合併して北広島町となった。
2005年2月7日、東広島市が、賀茂郡河内町・豊栄町・福富町・黒瀬町、および豊田郡安芸津町編入合併した。

▼主な交通機関
JR西日本が「100万都市広島にふさわしい都市型鉄道」を目指して構築した都市型鉄道ネットワーク。範囲は通勤比率よりも利用者実数に依存しているため、10%都市圏外の呉市や岩国市までサービスされている一方、都市圏北部は10%都市圏内でもサービス範囲に入っていない。

ICOCAのサービスも先にsuicaを導入した仙台に遅れて、2007年9月より開始した。これは山陽本線呉線可部線芸備線(広島〜狩留家)なおの広島シティネットワーク内以外にもJR岡山支社管内の岡山地区(岡山都市圏)・福山、尾三地区(備後都市圏)でも同時期に導入された。

広島市への原子爆弾投下
広島市への原子爆弾投下では、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分に、アメリカ軍が日本の広島市に対して投下した原子爆弾(以下『原爆』と記す)に関する記述を行う。これは実戦で使われた世界最初の核兵器である。この一発の兵器により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち約14万人が死亡したとされる。広島県広島市などを指す「広島」が「ヒロシマ」とカナ表記される場合は、広島市への原爆投下の関連での言及が多い。

▼投下の経緯
亡命物理学者のレオ・シラードの原爆開発提言等により、ルーズベルト大統領の指示でマンハッタン計画が開始される。ニールス・ボーア等による原爆投下阻止の試みは挫折する。そして、原爆の投下目標は1945年6月にとして広島と決定された。

8月4日、B-29エノラ・ゲイ号は最後の原爆投下訓練を終了して、マリアナ諸島テニアン島北飛行場に帰還した。

8月5日21時20分、第509混成部隊の観測用B-29が広島上空を飛び、「翌日の広島の天候は良好」とテニアン島に報告した。同時刻、テニアン島ではブリーフィングでポール・ティベッツ陸軍大佐がエノラ・ゲイ(名前の由来になったのは彼の母親の名前)の搭乗員に出撃命令を伝えた、「今夜の我々の作戦は歴史的なものだ」。

8月6日0時37分、まず気象観測機のB-29が3機離陸した。ストレートフラッシュ号は広島へ、ジャビット3世号は小倉へ、フルハウス号は長崎である。0時51分には予備機のトップ・シークレット号が硫黄島へ向かった。続いて1時27分、Mk-1核爆弾リトルボーイを搭載したエノラ・ゲイがタキシングを開始し、1時45分にA滑走路の端から離陸した。

その離陸2分後の1時47分、原爆の威力の記録を行う科学観測機(グレート・アーティスト号)が、更に2分後の1時49分には写真撮影機(#91 or ネセサリー・イーブル号)の各1機のB-29も飛び立った。即ちこの日、6機のB-29が原爆投下作戦に参加し、内4機が広島上空へ向かっていたことになる。テニアン島から目標の広島市までは約7時間の飛行で到達できる。