広島上空に!?

7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の1機が広島上空に到達した。クロード・イーザリー少佐のストレートフラッシュ号である。

7時15分ごろ、ストレートフラッシュ号はテニアン島の第313航空団に気象報告を送信した。「Y3、Q3、B2、C1」(低い雲は雲量4/10から7/10で小さい、中高度の雲は雲量4/10から7/10で薄い、高い雲は雲量1/10から3/10で薄い、助言:第1目標を爆撃せよ)。

この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、投下目標が広島に決定された。原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であった。

この観測機は日本側でも捕捉しており、中国軍管区司令部から7時9分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱したため、7時31分に解除された。

8時すぎ、B-29少数機(報告では2機であったが、実際には3機)が日本側によって捕捉された。8時13分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった(当然、ラジオによる警報の放送もなかった)。

8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600ft(9,632m)。まず原爆による風圧等の観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ落下させた。青空に目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。この時の計測用ラジオゾンテを取り付けた落下傘を原爆と誤認したため、「原爆は落下傘に付けられて投下された」と云う流説があるが誤りである。一部のラジオゾンデは、その後呉の日本軍が鹵獲に成功している。また一部の市民は「乗機を撃墜された敵搭乗員が落下傘で脱出した」と思って拍手していたという。

8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点(IP)に到達したことを、航法士カーク陸軍大尉は確認した。機は自動操縦に切り替えられた。爆撃手フィアビー陸軍少佐はノルデン照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度等の入力をし、投下目標(AP)を相生橋に合わせた。相生橋広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点にかけられたT字型の橋である。特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれた。

広島市の略史と被爆直前の状況
広島市は戦国時代の大名毛利輝元により太田川河口三角州に城下町として開かれて以来、中国地方の中心であり続けた。江戸時代には浅野藩の城下町として栄え、明治維新後は広島県県庁所在地となり、中国地方の経済的な中心地として発展していた。

広島高等師範学校広島女子高等師範学校・広島文理科大学・広島工業専門学校・広島高等学校を有する学都でもあった。

広島には軍都としての側面もあった。日清戦争時には前線に近い広島に大本営が置かれ、また臨時帝国議会も広島で開かれるなど、一時的に首都機能が広島に移転されている。これを契機として、陸軍の施設が広島に多く置かれるようになった。広島城内には陸軍第五師団司令部、広島駅西に第二総軍司令部、その周囲には各部隊駐屯地等が配置された。すなわち当時、爆心地の北側はおよそ陸軍の施設で広く占められており、陸軍敷地南端より約200mに爆心地がある。また宇品港に置かれた陸軍船舶司令部は兵站上の重要な拠点であった。

被爆当時の市中人口は約35万人と推定されている。内訳は、居住一般市民約29万人、軍関係約4万人、および市外から所用のため市内に入った者約2万人である。なお、居住一般市民約29万人は、老人、女性、子供が大多数と思われる。

現在の広島の地図から名前が消えた中島地区(中島本町・材木町・天神町元柳町木挽町中島新町)は、数千人の一般庶民が暮らす街であり、また広島の第一の歓楽街・繁華街であった。街には下町の長閑な暮らしがあり、映画館など娯楽施設もあった。木造低層家屋が立ち並んでいたこの地区は爆心地から500メートル以内にあり壊滅、唯一、RC建築の燃料会館(旧大正屋呉服店)だけが耐え残った。

戦後、この地区は広島平和記念公園として生まれ変わることになる。燃料会館は全焼した内部を全面改築して公園のレストハウスとなり現在も残っている。

被爆救護活動
広島市の行政機関は市の中央に集中し、そこは爆心地の近傍であったため、家屋は全壊全焼し、職員も多くが死傷し、被災直後は組織的な能力を失った。また広島城周辺に展開していた陸軍第五師団の部隊も同様に機能を喪失した。

市内の爆心地からやや遠方にあった宇品港の陸軍船舶司令部隊が被害が軽かったため、この部隊が救護活動の中心となった。船舶司令部は直ちに消火艇を派遣して大火災を起こした河岸部の消火活動を始めた。特に河岸部の病院施設は鎮圧まで消火し、そこを救護活動の橋頭堡とした。

陸軍船舶練習部に収容され手当てを受けた被爆者は、初日だけで数千人に及んだ。また原爆の被災者は広島湾に浮かぶ似島似島検疫所にも多く送られている。その数は1万人にのぼったという。この船舶練習部以外にも市内各所に計11ヶ所の救護所が開設された。船舶練習部は野戦病院と改称し、救護所は最大53ヶ所まで増加した。

市内の医療関係者は9割近くが罹災したため、救援に周辺の地域(県外含む)から多くの医療救護班が入った。8月・9月の救護所収容の累計は10万人を超え、外来治療者は20万人を超えた。