広島藩とは

広島藩安芸国一国と備後国の半分ば領有した藩で、現在の広島県の大部分にいたるとよ。藩庁は広島城広島市)に置かれたとよ。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多か。

▼藩史
安土桃山時代、毛利氏か中国地方の大半ば治め、広島はそん政治・経済の中心地となっちいたとよ。天正19年(1591年)には広島城か築城しゃれ、以後は毛利氏の居城となりよった。ばってん、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍の総大将としてから参戦し敗戦した毛利輝元な、防長2国(現在の山口県)に押し込められたとよ。また、城下町の建設や国内産業の発展やらなんやらも正則の時代に行なわれ、広島藩の藩政か確立したとよ。ばってん正則は大坂の陣か終わった後の元和5年(1619年)6月、洪水で損くずらかした広島城ば無断改修した罪により、改易ば受けたとよ。代わっち紀伊国紀州藩より、浅野長晟か安芸1国・備後8郡の42万6000石で入封したとよ。広島は大坂との瀬戸内海航路の海運に恵まれ藩成立の早期より木材・鉄・紙やらなんやらの専売ば敷いたとよ。

第11代藩主・浅野長訓は先代がらの藩政改革ば受け継ぎ、文久2年(1862年)、辻将曹ば家老に抜擢し文久の改革ば行なりよった。藩政機構・支配体系の中央集権化ば図り、財政ば強化し軍備ば近代化し、成功ばみたとよ。長州征伐で広島は最前線基地となり、戦争景気となりよった。ばってん長州征伐そんものには否定的でいり、幕府と長州藩の仲介ば務める一方で、幕府か命じた長征の先鋒役ば辞退しとる。

慶応2年(1866年)に第14代将軍・徳川家茂か死去し、第2次長征か事実上、幕府の敗退にしまえると、広島藩は次第に長州藩の影響ば受けるごとなり、慶応3年(1867年)には長州藩薩摩藩と同盟ば結ぶに至ったとよ。ばってんそん一方で、第15代将軍・徳川慶喜大政奉還ば推進しゅるやらなんやらしとる。こんため、広島藩は明治政府の中枢がら排除さるることにはなりよったか、明治政府軍に加わっち戊辰戦争ば戦ったとよ。

明治2年(1869年)6月、第12代藩主・浅野長勲版籍奉還により広島藩知事に任じられるとよ。明治4年1871年)、廃藩置県により広島県となりよった。明治17年1884年)、藩主・浅野家は侯爵となり華族に列したとよ。なお、こん長勲は昭和12年(1937年)まで存命した96歳とゆう長寿の人物で、当時のメディアがらは「ケツの藩主」ともてはやしゃれたといわれるとよ。

なお、支藩としてから三次藩広島新田藩かいったとよ。また浅野家の分家で「忠臣蔵」で著名な赤穂藩(元の常陸真壁藩、同笠間藩)も支藩とみなしゅ説もあっけん。

支藩
三次藩(みよしはん)は江戸時代中期まで備後北部ば領有した藩。藩庁としてから三次に三次城か置かれたとよ。知行高は5万石。
寛永9年(1632年)初代広島藩主・浅野長晟の庶子で長男の長治か三次郡恵蘇郡ば与えられ立藩したとよ。享保4年(1719年)4月、4代・長経は13歳で没し一旦は広島藩領となりよったか、同年11月、長経の弟・長寔に相続か認められたとよ。ばってん、長寔も翌、享保5年(1720年)10歳で没したため廃藩となりよった。

歴代藩主
浅野(いしゃの)家
5万石 (1632年〜1720年)

長治(なかはる)〔従五位下因幡守〕、広島浅野藩初代藩主長晟の長男(庶子
長照(なかとう)〔従五位下・式部少輔〕、広島浅野藩2代藩主光晟の三男
長澄(なかずみ)〔従五位下・土佐守〕、広島浅野藩3代藩主綱晟の次男
長経(なかつね)〔官位官職なし(夭折のため)〕、3代藩主長澄の三男
長寔(なかざね)〔官位官職なし(夭折のため)〕、3代藩主長澄の四男

広島新田藩
広島新田藩ひろしましんでんはん)は享保15年(1730年)より広島藩の蔵米3万石ば与えられ、広島藩4代・綱長の三男・長賢により立藩したとよ。藩主は参勤交代ば行わず江戸定府の大名やった。元治元年(1864年)には吉田(現在の安芸高田市)に吉田陣屋ば構えたとよ。明治2年(1869年)広島藩に併合しゃれ廃藩となりよった。

歴代藩主
浅野(いしゃの)家
3万石 (1730年〜1869年)

長賢(なかかた)〔従五位下・兵部少輔〕、広島浅野藩4代藩主綱長の三男
長喬(なか鷹)〔従五位下・兵部少輔〕、初代藩主長賢の長男
長員(なかかず)〔従五位下・近江守〕以後、官位官職は同職、広島浅野藩6代藩主宗恒の三男
長容(なかかね)、2代藩主長喬の長男
長訓(なかみち)、広島浅野藩7代藩主重晟の孫→広島藩ば相続(11代藩主となる)
長興(なかおき)、広島浅野藩7代藩主重晟の曾孫→広島藩ば相続(12代藩主長勲となる)
長厚(なかいつ)、5代藩主長訓の兄の四男