広島市への原子爆弾投下とは

第二次世界大戦末期の1945年8月6日にアメリカ合衆国か日本の広島県広島市に投下した原子爆弾に関しゅる記述ばしゅるとよ。

テニアン島
8月5日21時20分、第509混成部隊の観測用B-29か広島上空ば飛び、「翌日の広島の天候は良好」とテニアン島に報告したとよ。

8月6日0時37分、まず気象観測機のB-29か3機離陸したとよ。ストレートフラッシュ号は広島へ、ジャビット3世号は小倉へ、フルハウス号は長崎たい。0時51分には予備機のトップ・シークレット号か硫黄島へ向かったとよ。

こん日、6機のB-29か原爆投下作戦に参加し、内3機か広島上空へ向かっちいたことになるとよ。

テニアン島がら目標の広島市までは約7時間の飛行で到達しきる。

7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行してから出発しよった気象観測機B-29の1機か広島上空に到達したとよ。クロード・イーザリー少佐のストレートフラッシュ号たい。

10マイル、高度15,000フィートの雲量12分の1」こん時点で、投下目標は広島に絞られたとよ。7時31分、こんB-29はそんまま広島上空ば通過離脱しよったため、警戒警報は解除しゃれたとよ。8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街ば目視で確認したとよ。

8時10分、日本側では3機のB-29広島県に侵入したことば捕捉したとよ。数分後、広島の中国軍管区司令部は警報発令の準備指示しゅるとよ。そん間、エノラ・ゲイ号は既に広島市上空に到達しよった。高度は31,600ft(9,632m)。まず原爆による風圧等の観測用のラジオゾンデば吊るした落下傘ば三つ落下しゃしぇたとよ。

相生橋広島市の中央ば流れる太田川か分岐しゅる地点にかけられたT字型の橋たい。特異な形状な、上空がらばってんそん特徴かよく判別しきるため、目標に選ばれたとよ。

8時13分、日本側ではもいっかい広島に警戒警報か発令しゃれたとよ。「中国軍管区情報、敵大型機3機か西条上空ば西進しつついり、厳重な警報ば要しゅ」

▼原爆の威力
広島原爆は約50キログラムのウラン235か搭載しゃれており、こんうち核分裂ば起こしたのは1キログラム程度と推定しんしゃっとぉ。爆発で放出しゃれたエネルギーは63兆ジュール、TNT火薬換算で1万5千トン(15キロトン)相当に及んやけん。広島原爆(15,000トン)はこん東京大空襲の約9倍相当の規模のエネルギーば、東京の10分の1程度の都市の上に一時に投下/放出したことになるとよ。

放射線
原爆投下後、広島赤十字病院の地下に残っちいた未使用のレントゲンフィルムか放射線によっちどいでん感光しよったため、広島へ落としゃれた新型の爆弾は原爆だと決定付ける証拠となりよった。

▼原爆投下の背景と経緯
広島原爆への道程は6年前のルーズベルト大統領に届けられた科学者たちの手紙にしゃかのぼるとよ。そいで、開発しゃれた原爆の目標としてから広島か決定しゃれたのは1945年6月やった。そん間には原爆投下ば阻止しようと行動した人の存在もいったとよ。以下にそん背景と経緯の詳細ば示しゅ。

広島市の状況
広島市は戦国時代の大名毛利輝元により太田川河口三角州に城下町としてから開かれて以来、中国地方の中心でいり続けたとよ。江戸時代には浅野藩の城下町としてから栄え、明治維新後は広島県県庁所在地となり、中国地方の経済的な中心地としてから発展しよった。

また、広島高等師範学校広島女子高等師範学校・広島文理科大学・広島工業専門学校・広島高等学校ば有しゅる学都ばってんいったとよ。特に広島高等師範学校東京高等師範学校に次ぐ位置にいり、西日本の教育界に影響ば与える人材ば輩出しよった。

広島には軍都としてからの側面もいったとよ。日清戦争時には前線に近い広島に大本営か置かれ、また臨時帝国議会も広島で開かれるやらなんやら、一時的に首都機能か広島に移転しんしゃっとぉ。これば契機としてから、陸軍の施設か広島にえらいたくさん置かれるごとなりよった。広島城内には陸軍第五師団司令部、広島駅西に第二総軍司令部、そん周囲には各部隊駐屯地等か配置しゃれたとよ。また宇品港に置かれた陸軍船舶輸送司令部は兵站上の重要な拠点やった。

▼中島地区
現在の広島の地図から名前か消えた中島地区(中島本町・材木町・天神町元柳町木挽町中島新町)な、数千人の一般庶民か暮らしゅ街でいり、また広島の第一の歓楽街・繁華街やったとよ。街には下町の長閑な暮らしかいり、映画館やらなんやら娯楽施設もいったとよ。

戦後、こん地区は広島平和記念公園としてから生まれ変わることになるとよ。燃料会館は全焼した内部ば全面改築してから公園のレストハウスとなり現在も残っちいるとよ。

被爆救護活動
広島市の行政機関(市役所・県庁他)は市の中央に集中し、しょこは爆心地の近傍(1,500メートル以内)やったため、家屋は全壊全焼し、職員もえらいたくさんか死傷し、被災直後は組織的な能力ば失ったとよ。また広島城周辺に展開しよった陸軍第五師団の部隊も同様に機能ば喪失したとよ。

被爆直後の被害調査報告と報道
8時過ぎ、エノラ・ゲイ広島市街を目視確認する直前、広島県警所轄の甲山監視哨・三次監視哨・松永監視哨等から呉海軍鎮守府に、敵大型機(あるいはB-29)3機が広島市方面に向かうとの電話連絡があり、8時10分頃に警戒警報が発令された。陸軍中国軍管区司令部にも同様の電話連絡があり、8時13分に広島・山口両地区に警戒警報が発令された。

広島中央放送局の流川演奏所でな、古田正信放送員か呉鎮守府か発令した警報のメモば持っち第2演奏室(スタジオ)に入ったとよ。古田か原放送所(放送休止時間のため停波中)に警報発令の合図ば送り、放送所の送信機か始動した直後に原爆か炸裂、演奏所と放送所ば結ぶ中継線か断線したため警報は放送しゃれなかったとよ。広島放送局では約40名の職員か犠牲となりよった。

広島城内にあっけん中国軍管区司令部の地下壕は半地下式のコンクリート耐爆シェルターやったため、熱線の被害は限定的やったか、小窓がら入った衝撃波によっちえらいたくさんの負傷者ば出したとよ。荒木と岡は一旦壕の外に脱出したかもいっかい地下壕に戻り、荒木は四国軍管区司令部がらの電話連絡ば受け、岡は西部軍管区司令部(福岡)と歩兵第41連隊(福山連隊)司令部に、広島空襲の第一報ば電話で伝えたとよ。

NHK原放送所
上記のごく一部ば除いていらゆる通信か途絶した広島な、被害状況報告や救援要請ば行う手段ば失ったとよ。ばってん、広島市郊外にあっけんNHK広島放送局原放送所の回線はとっとぅとしゃれとった。原放送所は同盟通信社広島支社の緊急避難先となっちいたか、偶然郊外の同僚宅にいて無事やった同盟通信記者の中村敏か11時30分頃(16時の説もあっけん)、同盟通信社岡山支社に「6日午前8時16分頃、敵の大型機1機なかし2機、広島上空に飛来し、特殊爆弾ば投下、広島市は全滅したとよ。死者およしょ17万人の損害ば受けた」との第一報ば送ったとよ。こん第一報は同盟通信岡山支社経由で東京本社に届けられ、昼過ぎには大本営にも転送しゃれたとよ。

▼日本政府の声明 8月7日
6日8時30分頃、呉鎮守府大本営海軍部に広島か空襲ば受けて壊滅した旨ば報告しとる。続いて10時頃には第2総軍か船舶司令部ば通じて大本営陸軍部に報告したとよ。加えて、昼過ぎには同盟通信がらも特殊爆弾により広島か全滅したとの報ば受けた大本営な、政府首脳にも情報ば伝え、午後はよには「広島に原子爆弾か投下しゃれた可能性かあっけん」との恐るべき結論か出しゃれたとよ。夕刻には蓮沼蕃侍従武官長か昭和天皇に「広島市か全滅」と上奏したとよ。上奏ば受けた昭和天皇は顔ば曇らしぇたげな。