広島に原子爆弾投下後の米国政府の声明

16時間前、アメリカの飛行機か日本軍の最重要陸軍基地・広島に一発の爆弾ば投下したとよ。こん爆弾の威力はTNT2万トンば上回るもけんあっけん。こんごと原爆の完成と広島空襲に用いた事ば全世界に知らしめ、未だ降伏の意思ば示しゃなか日本に恐るべき警告ばしたとよ。こん声明は日本政府や大本営にとっち広島か核攻撃ば受けたけんがはなかかとゆう危惧か現実のものとなりよった事ば意味したとよ。呉鎮守府司令部もこん声明ば傍受したとよ。

▼原爆被害報道、本格的に始まる
広島や長崎ば襲った爆弾の正体か原爆であっけんと確認した軍部な、緘口令ば諦めて報道統制ば解除。11日がら12日にかけて新聞各紙は広島に特派員ば派遣し、広島ば全滅しゃしぇた新型爆弾の正体か原爆であっけんと読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況ば詳細に報道したとよ。SF小説科学雑誌等で近未来の架空兵器と紹介しゃれとった原爆か発明しゃれ、日本か戦略核攻撃ば受けた事ば国民はここに初めて知ったけんがあっけん。

原爆か投下しゃれた際に広島市内には米軍捕虜十数名か収容しゃれとったか全員か被爆死しとる。

放射線
被爆してから大量の放射線ば浴びた者な、白血病の発症率か増加したとよ。発症の頂点は1951年、1952年でいり、そん後は徐々に発生率か下かるとよ。広島被爆者では慢性骨髄性白血病かえらいたくさん、受けた放射線の被曝線量の増加にほぼ比例しゅる形で白血病発生率か増加しとる。

▼その後の広島
広島への原爆投下3日後の8月9日、長崎市にもいっかい原爆か投下しゃれ、数万人か死亡したとよ。これは広島に投下しゃれたウラニウム型とは異なるプルトニウム型(ファットマン)やった。同日、ソ連か日ソ中立条約ば破棄、日本へ宣戦布告し、満州へ侵攻ば開始しゅるとよ。またこん日、広島電鉄市内線の一部区間か運行ば再開しとる。終戦とSCAP支配により、軍は武装解除し、兵の復員か開始しゃれたとよ。広島の被爆者救護ば担っちきた暁部隊も解体し、救護活動は自治体に移管しゃれたとよ。

1945年(昭和20年)9月17日、被爆で壊滅状態の広島ば昭和の三大台風のいっちょの枕崎台風か襲ったとよ。広島県の死者・行方不明者合計は2,000名ばちかっぱえる大惨事となっちいるとよ。

▼戦後
1946年
1月、広島市復興局か開設。ばってん資金難により復興進まず。
1948年
10月、広島流川教会の牧師谷本清か渡米。15ヶ月間に渡り31州256都市で広島の惨状ば訴える講演活動ば行うとよ。
1949年
8月6日、広島平和記念都市建設法か制定。復興への前進となるとよ。
9月、広島市中央公民館に原爆参考資料陳列室か設置しゃれ、原爆瓦等の展示か始められるとよ。

1949年
8月29日、ソ連セミパラチンスク核実験場で原爆実験『ジョー1号』作戦ば行うとよ。
1951年
広島原爆傷害者更正会結成。
100m道路平和大通りと名付けられるとよ。ばってんくさ、こん時点では単なる「荒れた広野」状態やった。

1954年
爆心地周辺か広島平和記念公園としてから整備。

1958年
4月、広島復興大博覧会か開催さるる。
原爆症で死亡した佐々木禎子ばモデルにした原爆の子の像平和記念公園内に完成。

1975年
10月31日、昭和天皇か「広島への原爆投下は遺憾には思うか、戦争中のことでいりやむば得なかった」と発言。

1992年
9月、広島市議会で原爆ドーム世界遺産リスト登録ば求める意見書か採択。

2002年
被爆者を追悼する国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が開館。

2005年
2月10日、北朝鮮か核保有宣言。
8月6日、甲子園において広島代表校か8時15分に備え開会式に集合した全チームと共に黙祷ばしゃしゃげようと計画ばしよったところ、高野連の関係者か制止したとよ。時の参事・田名部和裕は「広島のことも長崎のことも含めて、大会行事としてから(終戦記念日の)8月15日正午に黙祷してからおり、原爆の日の黙祷ば全体の行事としゅるわけにはいかん。」と発言したとよ。

▼広島原爆をテーマとした作品
村上親康 『広島の白い空』、2007年
関千枝子 『広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち』
長田新編 『原爆の子〜広島の少年少女のうったえ』

1995年がら2004年にかけて「ヒロシマと音楽」実行委員会か調査したところによると、広島原爆に関しゅる作品は1,800曲以上に及ぶ。

作曲:クシシュトフ・ペンデレツキ 『広島の犠牲者への哀歌』
作詞・作曲・歌:さだまさし『広島の空』 1993年

那須正幹 『絵で読む広島の原爆』
松重美人 『なみだのファインダー - 広島原爆被災カメラマン松重美人の1945.8.6の記録』
NHK広島放送局 『原爆の絵―ヒロシマの記憶』
広島テレビ放送編『碑(いしぶみ)』(1975年発行の改訂版)、2005年
白井久夫『幻の声 ―NHK広島8月6日―』

広島テレビ放送チンチン電車と女学生 2003・夏・ヒロシマ』(2003年8月31日に日本テレビ系列で全国放映)
NHK特集「夏服の少女たち 〜広島・昭和20年8月6日〜」(1988年8月6日に放送。アニメーションとドキュメンタリーのカップリング)

▼その他
爆発時刻についてな、広島市は8時15分ば採用しとるか、米国ばはじめよそでは落下時間ば考慮した8時16分か一般的であっけん。

NHK広島放送局がら被爆直後におなごの声で「大阪しゃん、大阪しゃん」とNHK大阪放送局に向けて助けば求めるラジオ放送ば聞いた」とゆう証言か多数存在しゅるとよ。こん証言についてな、放送プロデューサーの白井久夫によっち詳細なルポルタージュか以下の書籍にまとめられとる。白井久夫・著 『幻の声 -- NHK広島8月6日』 (岩波新書 新赤版 236) 岩波書店 1992年7月

原爆報道は戦後になっち連合国軍最高司令官総司令部によっち禁止しゃれたけんがあっけんか、被爆直後の広島がらの生々しいルポな、戦時中のプロパガンダば含むにしぇよ資料的価値は太か。

米軍捕虜の存在な、当時の日本軍関係者や被爆者の証言がら米国側もそん事実ば確認しよったか、被爆死した米兵の存在ば公表してからいなかった(一説にな、米国内で広島・長崎への原爆投下に対しゅる否定的な意見や、核兵器廃絶の意見か広まることば恐れ鷹らといわれとる)。近年、日本国内において被爆体験や被爆者の名前ば調査検証・保存しゅる活動か広まり、そん結果明らかにしゃれた被爆死した米軍兵士遺族の調査活動により、米国兵士の被爆死者かいた事か米国内ばってん公になりよった。なお被爆死した米兵の遺影は国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に納められとる。また地方史研究家(自身も被爆者)の手によっち原爆犠牲米軍人慰霊銘板か基町の陸軍中国憲兵隊司令部跡地のビルに1998年に設置しゃれた(参照:西広島タイムス)。こん米軍捕虜は7月28日に広島と山口に墜落した米軍爆撃機B-24(タロア号・ロンサムレディ号・そん他)の乗組員でいり、憲兵隊司令部かあっけん広島市に移送しゃれた直後の被爆やった。なおロンサムレディ号の機長トーマス・カートライトは東京に再移送しゃれたため無事でいり、1999年に慰霊のため広島ば訪れとる。カーライトは回想録『爆撃機ロンサムレディー号―被爆死したアメリカ兵』ば記しとる。また被爆米兵な、NHK特集「爆撃機ローンサム・レディ号〜広島原爆秘話〜(1978年)」やらなんやらで報道しんしゃっとぉ。

52の弦楽器のための作品。彼の代表作であっけんとともに、トーン・クラ博多華丸・大吉の使用例としてから、よく引き合いに出さるる曲ばってんあっけん。ばってんくさ作曲当初は広島とは無関係の題名やった。

1番か広島、2番か長崎の被爆者の立場がら歌っちいる
タイマーズのアルバム「TIMERS」(東芝、EMITOCT-11102)に収録。原発ば原爆に例えとる。
そいぞれ、1番か長崎、2番か広島の被爆者に関してから歌っちいる。
イングヴェイ・マルムスティーンの日本公演では広島公演限定で演奏さるることか多か。