広島カープの経営事情

カープは当初、広島県広島市呉市中国新聞日本専売公社広島市に主力工場のちゃた)、広島電鉄東洋工業やらなんやらの広島政財界の出資で設立しゃれたとよ。運営資金の極めて少なく、1951年にははよも解散なかしは大洋ホエールズとの合併の検討しゃれたの市民の猛がちゃぽんに遭っちいる(「#8人ん侍」参照)。この経験がら「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動の起り1960年代まで続いたとよ。

▼FA残留拒否
1993年に日本プロ野球ばってんFA制度の導入しゃれたの、広島は横浜やダイエーと共に一貫してからFA権の行使は認めても行使後の残留(FA残留)は一切認めてこなかったとよ。これな、FA権ば行使した選手の年俸および契約金の翌年以降の活躍如なんに拘わらず高騰してからなおすリスクのあっけんためでいり、資金力に乏しい広島の経営ば圧迫しゅる危険性のあっけんがらたい。

2007年に新井貴浩内野手のFA宣言した際も、球団はFA残留ば認める方向やったの、結局阪神に移籍したとよ。現在も広島にFA残留した選手はおらん。

▼8人の侍
1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案の浮上。広島球団の経営の選手の月給しゅら定期に払えなか限界状態に達しとること、補強策の整っちおらず前年同様にどべの決定的であっけんこと、そいらの問題ば抱えたカープセ・リーグの評判ば落としかねなかこと、の主な理由やった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っちいたとよ。当時下関に本拠地ば置いとった大洋ホエールズとん合併か、そいとも解散かとゆう瀬戸際の中、広島球団はいらゆる企業に出資の伺いば立とうの実らなかったとよ。

3月13日、NHK広島放送局の「カープ解散」ば報じたとよ。解散の報ば聞いたカープファン8人の自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージの記しゃれたバットば手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞へ乗り込みカープへん支援交渉ば行ったとよ。この8人の名も無きファンの行動によりカープの市民がら如なんに愛しんしゃっとぉかの示しゃれ、えらいたくさんん広島の企業、広島市民・県民がら援助ば受けることとなりよった。広く援助ば呼びかけるために球場前には樽の置かれたとよ。この「樽募金」やらなんやらに代表さるる支援で経営は多少ん改善ば見しぇ、球団合併・解散危機は回避しゃれたとよ。

▼疑惑のホームラン
1953年4月1日、尾道西高校(現・尾道商高)ん校庭で開かれた大洋松竹ロビンス戦で、広島・白石勝巳選手ん放った打球の右っかわあいなかに飛び込むホームランとなりよったの、こんプレーばめぐり洋松・小西得郎監督の異ば唱えたとよ。こん試合ん会場はフェンスのなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にちゃたとよ。そん為「広島ば勝たしぇてやりたい、広島ん選手に得点ば与えたい」といったファンん欲望がら「ロープばわざと前に押し出したけんがはなかか」と猛抗議ばしたとよ。

当時公式戦ば開催しきる基準ん会場の広島県内には少なかったため、学校や企業んグラウンドば会場にした試合は珍しくなかったとよ。福山三菱電機グラウンドや大竹警察学校グラウンドでん開催もあっけん。

そんわずか11日後ん4月12日、今度は広島総合球場ば舞台にした同じカードで、広島ん選手んホームランばめぐっちファンのグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行ば加えるハプニングのちゃたとよ。

▼身代わり出頭
1956年5月20日広島総合球場で開催しゃれた対巨人戦で、ファンの3連敗に怒り物ばグラウンドに投げ込んばってん、偶然巨人投手ん木戸美摸にビール瓶の直撃し負傷しゅる事件の発生したとよ。偶発的な事件やったの、巨人側の「犯人ば出しゃなか以上、二度と広島でゲームはせん」と強硬な態度ば示したとよ。

▼「カープを優勝させる会」
1966年に東京都に在住しゅる広島県人ん著名人有志の「カープば優勝しゃしぇる会」とゆう団体ば発足しゃしぇたとよ。発起人は東京で趣味ん雑誌「酒」ば編集・発行しよった広島県出身ん作家佐々木久子やった。こん発足に梶山季之石本美由起新藤兼人藤原弘達木村功杉村春子森下洋子ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりんあっけん灰田勝彦富永一朗、そん他、アンチ巨人で有名やった大宅壮一や梶山ん飲み友達やった田辺茂一らの参加したとよ。佐々木によると東京は巨人んファンだらけでうんざりしてからいて、しかも当時ん広島もどべか5位の当たり前、よくてBクラスん勝ち越しと予想さるるほど弱かったため、「西がら太陽の昇ることのちゃてもカープの優勝しゅるどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にしゃれとった。

90年代後半がら続いとる広島んふのおらん成績や戦いぶりに「もういっぺんこん会ば復活しゃしぇよう」とゆう声の上のっちいるとよ。

江夏の21球
1979年、近鉄バファローズとん日本シリーズ第7戦で、江夏豊のノーアウト満塁とゆう絶体絶命ん場面ば無失点で切り抜け広島ば日本一に導く。こんシーズンで自身初、そいでリリーフ投手で初んMVPに輝く。なお、こん詳細はNHK特集に取り上げられたとよ。